ある晩、息子が突然「いまからピアノコンサートをします!きっぷを買ってください!」といって、幼稚園のピアニカの授業で習ったらしい「山の音楽家」をピアノで弾きだした。
たどたどしい演奏の割にかなり強気で、客席(母と私)に拍手を強要してくるのはもちろん、「“すみませーん、はやく(幕を)あけてくださーい”って言って!!」とセリフまで言わされる。そして娘にも「○○ちゃんはぼくのピアノにあわせてダンスおどって!」と無茶ぶりオンパレード。もう王様。絶対君主。ブルボン朝かっていうぐらい絶対王政。
そんな我が家のルイ14世の絶対的な命令の下、へいこらと拍手喝采する平民たち(母と私)を前に、踊り子の娘はもうすっかりその気。すまし顔で“気を付け”の姿勢で待機していたかと思うと、王様のピアノに合わせてノリノリで即興ダンスを踊り出した。これがまぁ、最高におもしろい!
文字で表現しようとすると、単に手拍子しながら足踏みしているだけなので、正確にはダンスではないのだけれど。テンション上がりすぎてまりもっこり(※)みたいな笑みを浮かべながら、奇妙なリズムで全力でぴょこぴょこ飛び跳ねている。
極めつけは終わった後に深々とおじぎ!へっぴり腰で深々とおじぎする姿がなんとも滑稽で、しかもなぜか正面におじぎした後90度回転して左側(誰もいない)に向かってご丁寧にもう一礼。
そんな子どもたちを見て、母と私は大笑い。
涙が出るほど笑いながら、ふと「今ここに母がいなかったら、私こんなに笑ってなかったんじゃないかな」と思った。
***
離婚を決めて逃げるように母の家に転がり込んでから、もうすぐ丸2年が経つ。2LDKでの母と私と2人の子どもたちとの共同生活、始まる前はどうなることかと(特に母が)案じていたけれど、少なくとも私は今のところ至って快適に、とても楽しく暮らしている。
母が勤める会社に拾ってもらった私にとって、母は直属の上司でもある。その忙しさは私なんて比べ物にならなくて、日本全国出張で飛び回り、残業も休日出勤も当たり前、とても古希を目前に控えているとは思えない働きマンっぷりだ。
そう、何が言いたいかというと、母は忙しい。基本的に私の育児がワンオペであることは、離婚前も離婚後も、そう大して変わっていないのだ。
もちろん、朝のドタバタの中でパッと娘を着替えさせてくれたりとか、オムツを替えてくれたりとか、早く帰ってきた日は晩ごはんを作ってくれたりとか、そういった“実際に手を動かす手伝い”にも大いに助けられている。
けれども、そういった家事・育児の実際の手伝いより何より助けられているのは、母の“存在そのもの”なのだ。
育児において“子どもと自分だけ”という状況は、自分が思う以上に、自分を追い詰めることがある。
自分以外の大人の目線がそこにあるだけで、自分以外の誰かが子どもを見守ってくれているだけで、どれだけ心にゆとりができるか。
抱えてる忙しさは変わらなくても、ふと手を止めて子どもの言葉に耳を傾ける、子どもの動きに目をとめる、子どもの笑顔に笑顔で応える。
そんな心のゆとりができるのは、私が一人じゃないからだ。
その心のゆとりは、100枚お皿洗ってもらうより、100回洗濯機回してもらうより、100食ごはん作ってもらうよりも、ありがたい。
(いやお皿1枚だってめちゃくちゃありがたいんだけども。)
私のスマホには、ドヤ顔でピアノを弾く息子と、半分白目になりながら一心不乱に踊るまりもっこり娘と、文字通り腹を抱えて大笑いする母の動画が写っている。
いつかきっと、この動画を見返す時に、母の大笑いの顔と、私の笑い声、ぜんぶひっくるめて“子育て”のいい思い出になるんだろうなぁ。
この記事へのコメントはありません。